2021-MM-DD(「声優ラジオの時間」のコラム応募に応募し(て不採用だっ)たコラム)

しばらく前に「別冊声優ラジオの時間 ラジオ偏愛声優読本」のコラム募集があったので、応募しました。

blog.livedoor.jp

結果はあえなく不採用でした。ただせっかくなので(?)晒そうと思います。

いつからか自分が思っていること・考えていることを表にすることについて恐怖に似たものを感じるようになってしまっていて、この知らせを見たときもどうしようかなと迷っていました。でも書かないと・応募しないと後悔すると思って締切数日前からワーっと書き始めました。

ラジオと改めて向き合う切欠をくれた、また自分の拙い文章を読んでくださった編集部のかたに改めて感謝いたします。

 

文章の始めに書いているように、取り上げたのは「A&G メディアステーション こむちゃっとカウントダウン」(こむちゃ)の 2020 年 7 月 11 日放送分です。自意識のためにそう感じるだけかもしれませんが、以後本当に気持ち悪い文章が並んでしまうので、気持ち悪いな、こじらせてんな、と思いながらご笑覧いただければと思います*1

誤解を招くような文章は書いていないつもりですが、本当に良かったという思いを持って書いたものなので、もし何か誤解させるようなことがあったらすみません。

そして、なんか本当に野暮なことをやってしまっている気がしています。野暮なこと、と言うと語り尽くしているように思えますがそこまで全然達していませんし、見る人が見ればトンチンカンなことを言っているかもしれませんが。

 

(公開しておいて言うのもなんですが、ひっそりとしておいてもらえると助かります……。こんなもの共有したいと思う奇特な人はいないかと思いますが……。)

 

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私は、「個人的な神回」として「A&G メディアステーション こむちゃっとカウントダウン」(こむちゃ)の 2020 年 7 月 11 日放送分を取り上げたい。こむちゃは、櫻井孝宏さんがパーソナリティ、白石晴香さんが現在のアシスタントパーソナリティを務めている。

この回は井口裕香さんがゲストだったのだが、井口さんが「ゲスト」で登場することが重要である。井口さんは 2009 年 4 月から 2019 年 3 月までの 10 年間、こむちゃのアシスタントパーソナリティを務めていた。(放送時点で)こむちゃの歴史の半分以上を共にした前パーソナリティが、今度はゲストとして登場、というわけである。

この回を取り上げる理由は、通常回においてパーソナリティはゲストの「いま」を引き出す、またゲストも自身の「いま」を丁寧に語る、という、それぞれの役割を十分に果たしたことで、高い完成度のラジオ番組が作り上げられていると感じたからである。特に、井口さんが前パーソナリティでありつつもゲストとしての役割に集中し、それを十分に果たしたところが大きいと考える。

最初の挨拶からその現れが聴いて取れる。櫻井さんと井口さんの挨拶が「久しぶりですね」といった、通常想定されるものから「始まらない」のである。これらの過去を想起させる言葉を用いないことが、過去を振り返るのではない、ということを示している。だからと言って、井口さんも前パーソナリティであることをすっかり消し去るのではなく、効果的に用いている。その一例が、櫻井さんが歌を評して「大人っぽくなったと思う」と言った回答への、「確かに 20 代を知ってくださっている、このこむちゃのスタッフさんとか櫻井さんだと、そう、より感じてもらえるかもしれないです」である。「大人っぽくな」る前の比較対象として、アシスタントを務めていた頃を持ち出すことで、話に自然に臨場感を持たせているのだ。他にも、ゲストコーナー最後の「ゲストさんの言うあっという間って本当なんだな」という言葉も、とても楽しかったということをパーソナリティ時の経験を活かして表現したものとなっている。これら以外にも、井口さんにしか出せない、またこむちゃでしか出せない言葉が随所に散りばめられている。

番組の最後に櫻井さんが「井口裕香がサッと帰っていきましたね。あの辺のサバサバしている感じが私は好ましいんですが」と言っていたが、まさにその通りだと思う。今回は○周年記念放送などではなく、あくまで通常のゲスト出演であり、ゲストとしての役割を果たした以上、あとはこの放送は現パーソナリティの二人が作るものである、ということを井口さんが体現しており、それを櫻井さんも確かに汲んでいるのだ。

大笑いや感動する話などの局所的な盛り上がりも大事だが、私がラジオ番組において重要だと思う点として、一言一言を大切にして番組全体を組み上げる、という点がある。この回のこむちゃは、出演者三人が言葉を丁寧に紡いで 1 回のラジオ番組を作り上げた「神回」であると考える。特に、前パーソナリティという点をもっと押し出した話をしても良さそうなところを、井口さんはゲストの役割に集中し、かつ前パーソナリティという自身の経験を自然に、また効果的に織り交ぜていた。それにより、こむちゃでしか、そして井口さんにしかできない、「いま」を語るトークが作り上げられていた、という点が素晴らしいと感じている。

 

 

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いまになって読み返すと本当に主観的な内容(感想)を書きたかったにも関わらず客観性を持たせることに無駄に拘ってしまったのかな、と感じます。コラムとはそんなものかもしれませんが、うまくコラムというものに落とし込むことができなかったのかな、と。

あと読み返してみて思うのがお前は何様だよっていうことですね。

 

私は井口さんに(勝手に)救われてきて、そして井口さんのラジオにおける(ラジオに限りませんが)言葉の紡ぎかたや放送を成立させようとするバランス感覚が本当に好きだと思ってきたので、何かしら井口さんに関することを書こうとは決めていました。そういうこともあって、「井口裕香のむ~~~ん⊂( ^ω^)⊃」について書こう、とも考えていたのですが、応募時点で思いを上手くまとめることが出来ませんでした。う~~~む。

 

以下、色々と補足というか言い訳というかを書いておきます。

 

・「確かに20代を知ってくださっている、このこむちゃのスタッフさんとか櫻井さんだと、そう、より感じてもらえるかもしれないです」の一言について

リスナーが含まれていない、と思う人もいると思います。これは勝手な想像でしかありませんが、回答によって当時に(強制的に)戻される対象に、いまこの瞬間に放送を聴いているリスナーを含むべきでないという判断が瞬時にはたらいたのではないか、と思っています。

櫻井さん、そしてスタッフの方々は、仕事としてこむちゃにこれまで携わってきて*2、当時に強制的に戻されたとしても問題ない対象だと言えます。一方でリスナーは放送を聴くも聴かないも自由で、つまり、井口さんがアシスタント時代の放送を 10 年間ずっと聴いてきた人も 1 回も聴いてこなかった人もきっといるわけです。極端に言えば 2020 年 7 月 11 日に初めてこむちゃを聴いた、そんな人もいるかもしれません。そんな中でリスナーまで当時に戻す・当時を想起させる対象に含めてしまうのはあまり良くないだろう、という判断がはたらいたのではないか、と考えています。すなわち、当時聴いてこなかった人たちは置いてけぼりになってしまうし、当時を知っている人も、必要以上にその当時を意識させることは、ゲスト出演・アルバム発売という話の本筋から逸らしてしまう、ということです。

ただ、当時を知っている人にとっては、間接的であってもその当時を必要十分に思い出させるだけの効果はあった、自分の中でなんとなく当時を想起しながらより臨場感を持って聴き進めることができた、そんな言葉になっていたのだと思います。

 

白石晴香さんのことが具体的に書かれていないではないか!

本当にその通りで、白石さんもとても良かったので、白石さんの良さについても書きたかったです。櫻井 vs. 井口(井口 vs. 櫻井?)*3で終わってしまいそうなところを、しっかりと白石晴香ここにあり、と言わんばかりのトークでした。

ただ、白石さんの良かった点まで具体的に伝えようとすると、内容としてもややブレてしまいかねないし、現実的な問題として字数が足りなくなってしまう*4ということがありました。苦肉の策として、「パーソナリティ」や「出演者三人」など、白石さんを含む言葉を用いることで、白石さんも良かったんです、ということを入れ込みました(そのつもりでした)。

特に、水が器に合わせて形を自由自在に変えることに準えて、表現者としての様々な側面を 1 枚のアルバムで体感することができる、という旨の言葉は本当に上手いな、と感じました。

 

 

・ゲストとして来ているのだからゲストとして振る舞うのは当然なのでは?殊更に取り上げることか?

おっしゃる通りで、当たり前のことかもしれません。しかし、その当たり前のことを自然にこなすこと、毎週放送されていく中の 1 回の放送として違和感ないものとして成立させる、ということはそこまで簡単なことではないと思っています。

よく「その人が思うままに好きに喋ればそれがラジオになる」みたいなことが言われていますし、それがラジオ番組というものを特徴付ける・他媒体と差別化する側面になり得るのも事実です。ですが、この言説は時と場所によっては必ずしも正しいとは限らないと思っています。やれ爆発的だとか歯に衣着せぬ物言いだとか超高速の弾丸トークだとかの分かりやすい特徴を前面に押し出したものが目立ってしまいがちですが、やはり、番組全体のことを考えて、自分のやりたいこと・個性をある程度抑えたとしても自身の果たすべき役割をしっかり果たす、というのは大事なことです*5

今回の放送で、そういった意味でのビックリするようなこと、大笑いしたり感動して涙したりするような出来事は、多くの人にとってはなかったかもしれません。そういうわけで、もしかしたら大半の人はすぐに忘れ去っていくような放送かもしれません。でも、そんななんでもない 1 回の放送も、生活に自然に溶け込んだ放送*6も、「神回」であっても良いのではないか?多くの人にとってなんでもない放送において紡がれた、何気ない一言をひとりで噛み締める、そんな向き合いかたもあって良いのではないか?という思いがあって、この文章を書きました。

現パーソナリティのお二人が井口さんをその週のゲストとしてもてなし、井口さんも新譜をリリースする一ゲストとして振る舞ったことで*7、そんな心地よい・楽しい放送を作ってくださった、というのは今でも個人的に強く思っています*8

 

(内容とはややずれる話・上と重なる話として)

・「神回」について書いておきながら、そもそもラジオについて「神回」という言葉やその他の標語的な言葉を使うのが個人的にはあまり好きではありません。

勝手な思い込みかもしれませんが、「神回」という言葉には、何かハイライトとなるような出来事が起こった、という意味が含まれているように思います。ですが、ラジオにおいては、一部を切り取ってしまったり、標語的な言葉を使って丸め込んでしまったりすると、一言一言、緻密に組み上げられた放送の良さを正しく表現出来ないのではないか、という思いを強く抱いています*9。今回は、「『個人的な』神回」ならまだあくまで私個人が良いと思った、だから良いのかな、と思って書いています*10。また、「元パーソナリティがゲストとして登場」という点を井口さんが押し出していれば、それがいわゆるハイライトたり得たのかもしれませんが、そういう放送にはしなかった、という点が重要で、非常に良かったと思って上の没コラムを書いています。

加えて、個人的に最近のラジオ放送の流れに思うところあったので最後の一段落を、そこの最初の一文を、書きたかったというのがありました*11。古き良き、という言葉がありますが、何でも古いものが良いかというとそんなことは一切なくて、その時々の世の中の・人々の価値観に合わせて考えをアップデートしていかなければいけません。具体的には、ラジオに関して、Twitter を始めとする SNS での盛り上がりを意図した動きが最近とみに増えています*12radiko の普及もあり、皆でラジオを盛り上げていこうとか、SNS で感情を積極的に共有していこうとかの動きが高まっているのを感じますし、私自身、そういったものに触れることで得ることができたものもたくさんあります。また、存在を知ってもらうというのは非常に大事なことです。SNS の力によってこれまでよりも番組が認知されやすくなっているはずです。そういった意味でも、この動きはこれからも大事にしていかなければならないものなのだと理解しています。

ただ、そういった動きのときにはどうしても、アイコンとなり得るもの・キャッチーなものが取り上げやすい・取り上げられやすいように思います。ここが良い・良かった!と一言で伝えられるようなものです。その一方で、じっくり聴いて考えをめぐらせることで分かるもの、全体を聴いてじんわりと伝わってくること、というものも、むしろそういうものこそが、ラジオ番組というものを特徴づけるもの・パーソナリティの人となりを反映したものとなっているのではないか?と個人的に考えるようになってきました。また、ややもするとオレダケハ・ワタシダケハワカッテイルヨみたいになりかねないので注意が必要ですが、多くの人にとってはなんでもないけれど、聴いてひとりで勝手に救われる部分、というのも大事ではないでしょうか*13。そういった部分は言語化するのは難しくて、SNS でも共有しきれないような、どこかモヤモヤとした気持ちだったり、言葉にしてしまうと野暮になりかねないものだったりすると思います。そういった意味でのラジオ番組の古き良き部分、そしてラジオ番組と聴取者の関係、というものは続いていって欲しいな、大事にされていって欲しいな、というのが個人的な思いとしてあります。そういった意味で、自分が取り上げた回の(それに限らず)こむちゃは、井口さんのトークは、そういった古き良き部分を残しながら進み続けているように感じます。

ただ、そこをもがきながらなんとか上手く言葉にしていく、というのが、(広めたいまで行かずとも、少なくとも)好きであることを言いたい人のあるべき姿なのかもしれませんが*14

極端な話、ラジオ本すらナンセンスだとどこか思ってしまっている節もあって*15*16、この文章も含め、どんなに他者が良さを述べたところで番組を全部聴け!の一言で一蹴されてしまうというか、番組を全部聴くこと以外では、その番組についての良さを正しく伝えることが出来ないのではないか、と思うこともあります。そもそも万人が納得する良さなんてものもなくて、聴いた人ひとりひとりが感じる良さというものがその人にとっての良さである、それだけで十分なのかもしれませんが(、ということまで言い出したら元も子もない)。

 

最近読んだ(もしかしたら以前にも読んでいたかもしれない)、参考になる・この部分を書く際にやや影響を受けた文章として:

blog.livedoor.jp

(内容の全てに諸手を挙げて同意する、というわけではないですが、読んでいてどことなく重なる部分があった、なるほどと思わされることがあったので挙げさせていただきました。)

 

これ以上書くと話がブレにブレてきそうなので、この辺の話題についてはまたいつか改めて書きたいと思います*17

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:お前は気持ち悪いと思っている文章を掲載してもらおうとしていたのか?

*2:もちろんスタッフさんの中には最近担当するようになった方もいらっしゃる可能性はありますが。

*3:戦わせるということではなくて。

*4:上の文章でも既に 1000 程度 ~ 1200 字程度という制限をこっそりオーバーしている:一応応募時点では許されていたと思うのでそのまま出してしまった。

*5:個性的なものが求められている場において、であれば良いのですが……。

*6:特に地上波での放送はその要素がかなり強くなり得ると思っています。

*7:なんというか上手く表現できない一抹の寂しさのようなものを感じなかったといえばウソになりますが。

*8:念のため書いておくと話が面白くなかったとか盛り上がりがなかったとかいうことでは決してありません。

*9:上の没コラムで切り取りをしているので自家撞着を起こしているわけですが。

*10:編集部のかたなどを非難する意図は一切ありません。というかこれも何様って感じの文になってきているな……。

*11:自分の主義主張のために番組の感想を利用しているようにも感じられるな……それはよくない。

*12:最たる例として「#このラジオがヤバい」など。

*13:ただ自分自身はどこまでも面倒くさい人間なので、こういったことを CM で大々的に宣伝されてしまうとそれはそれで若干冷めてしまうきらいがあります……。

*14:このコラム募集がそういう役割を果たし得たのかもしれませんが、私にはその力がなく、この文章もただ野暮なだけのものになってしまっているのかな、と感じます。

*15:コラムに応募したことと矛盾してしまいますね。

*16:念のため補足しておくとこれは想像が行き過ぎた結果で、ラジオに関する本を買うと、良かったな、自分は間違っていたな、と感じることが多いです。

*17:こう言ったときには書かない。